本の紹介

とりあえずは「本棚」では少し物足りないので、そこでは触れない娯楽を含めた何冊かの本を紹介していきます。まあ、遊びの精神でやっていきましょう。

建築家の視点からの日本の古代史 上田篤『日本人の心と建築の歴史』(鹿島出版会)




上田篤『日本人の心と建築の歴史』(鹿島出版会)


タカマガハラは越の国?


 今回は少し本格的な内容のものを紹介します。文体も変えます。


 建築家の上田篤が、日本の建築を古代史に結びつけて考察している。柱の思想は、縄文遺跡から、丸木舟に通じるものと推論する。縄文時代の日本列島は、平地はほとんど湿地や湖沼で、細流も始終流れが変化していた。そんな中を、配偶者を求めて男たちは行き来していたと推定できる。当然、彼等は、丸木舟に乗って移動していただろう。この民族の記憶が、江戸時代まで丸木舟構造に拘ることにつながった。その霊力を帯びたものを柱として家を守るものとして大事にしてきた、と上田は考える。


 屋根が中心になるのは、縄文時代の竪穴式住居において火を守るためであろう。


 タカギノカミ(ニニギの母方の祖父)は、オオクニヌシの国譲りに際して、巨大なアマツカミの宮殿を建て、橋や舟などもつくっている。つまり、タカマガハラとは「巨木文化」の土地ということになる。


注目されることはここ二〇年あまり、関東から信州、東北、北陸にかけて縄文時代の巨木遺跡がつぎつぎと発見されていることだ。たとえば、長野県原村阿久遺跡からは五〇〇〇〜六〇〇〇年前の一辺四メートル前後の正方形状の直径一五〜三〇センチメートルの柱列群が、青森市の三内円山遺跡からは四〇〇〇〜五五〇〇年前の直径約一メートルの巨大なクリの木の「六本柱」が、新潟県青海町の寺地遺跡からは直径約六〇センチメートルのスギの「四本柱」が、富山県小矢部市桜町遺跡からは四〇〇〇〜五〇〇〇年前の貫穴などをもつ多数の木柱群が、石川県能都町真脇遺跡からは二〇〇〇〜六〇〇〇年前の直径約一メートルのクリの半割一〇本の「環状列木」がそれぞれ発掘されている。

 そのほか、群馬県月夜野町の矢瀬遺跡、富山県井口町の井口遺跡、金沢市の米泉遺跡などあげれば枚挙にいとまがない。

 豪雪が巨木を育てたのだろうとし、さらに、造船技術との関わりに注目している。


 これらの巨木遺構の発見は、縄文時代の昔から、関東、信州、東北、それに北陸地方にかけて巨木文化が

 によってもたらされる豪雪のせいだ。何十メートルもの豪雪が、それにうちかつ直立巨木をうみだしたので

 ある。

 そういうなかにあってとくに注目されるのは金沢市新保本町チカモリ遺跡である。そこでは直径四〇センチメートルから九〇センチメートルの丸太が四五本、断面がカマボコ型の丸太が二五〇本、断面がU字型の丸太が五二本もみつかっている。じつに三五〇本もの直径六〇センチメートル前後の巨木が発見されたのだ。

 そのハイライトは裏脇遺跡とどうようのクリの「環状列木」である。その断面はいずれも丸太を半分にわったカマボコ型だ。さらに人口にあたるところには、おどろくべきことに断面がU字型にくりぬかれた木がむかいあってたっている。

 これはだれがみても丸木舟である。カマボコ型の木もその製作途中のものにちがいない。とすると、このあたりは丸木舟の生産基地だったのではないか。のちに大伴家持が『万葉集』で「鳥総(とぷさ)たて舟木きるという能登の畠山」とうたったように、北陸は舟の一大生産地帯だったのである。

 さきに、木造建築の柱の断面は直径三、四寸、すなわち一〇〜一二センチもあれば十分だ、といった。ところが丸木舟は人をのせるために、どうしても六〇センチメートル以上の断面の木が必要になってくる。ということをかんがえあわせると、さきの正楽寺遺跡とどうよう、巨木は建築より丸木舟に必要だったのではないか、建築はせいぜい信仰の対象や目印となるモニュメントをたてるぐらいのものだったろう。

 日本海をわたってきた大陸の寒気団がもたらした寒気と豪雪は、北陸地方に巨木を生育するとどうじに、古来からの日本の「重要な造船地帯」を形成したのである。(『日本人の心と建築の歴史』鹿島出版会
pp.58-9)

 当時の気候から、リマン寒流と黒潮により「湾岸流」が起こり、潟が形成され、ラグーンとなった土地が多く見られた。そこではおだやかな海となり、港が多く存在することになる。上田は、特に石川県に注目する。


 さらに金沢市の北から小松市の南にかけてのおよそ四〇キロメートルの海岸地帯は、かつては一大入海だった。それが日本海の漂砂によって内灘砂丘にみられるように蓋をされ、一大潟湖が形成されたとみられる。北の古河北潟、南の古江沼潟のちの今江潟などが文献にその名をとどめている。

 この潟湖をめがけて加賀の白山を源流とする手取川が流れこみ、潟湖の内部に一大扇状地帯がつくられた。そして手取川がはこぶ土砂によって渦潮一帯に多くの島が形成された。今日でも明畠、桑島、森島、中島、矢頃島、漆島、向島、長島、源兵衛島、出合島、与九邸島、田子島、舟場島、水島、北島など島の地名が密集している。

 雄大な潟湖を背景として、仙台湾の松島のような大小無数の島々の風景をおもいうかべると、かつて八百万の神々がゆききしたタカマガハラもこういうような場所ではなかったか、とおもわれてくる。

 なお三五〇本もの縄文時代の巨木が発見されたさきのチカモリ遺跡は、その潟湖のほぼ中央、かつての古河北潟の一角にある。

 かつての「高志」あるいは「越の国」は、北は秋田市から南は福井市までのおよそ五〇〇キロメートルにわたる海の国であった。そしてそこに形成された潟湖を「母なる海」として、北欧のフィヨルドよろしく多数の舟人たちがゆきかったことだろう。じつさいそれを象徴するように、縄文時代中期以後のこの地域には、それまでの土俗的な土器とはおよそちがった「火焔土器」や「装飾石棒」とよばれる絢爛たる土器や石器が多数つくられている。そしてそれらが各地にひろがっていっている。また糸魚川、姫川からは硬玉ヒスイがでて、北海道から長崎までもたらされている。さらに一二〇平方メートル、四〇坪近くある縄文時代の大型住居が二〇遺跡、四〇棟以上も発見されている。(pp61-2)

 当時の北九州は鬼界カルデラで起きた火山爆発によって九州地区は無人化したので、また、寒冷化現象からみて、北方の「越の海人」が北九州に進出して「宗像の海人」になったと見る方が妥当だ。


 2300年前から1800年前の氷河時代に戻るかと思われるほどの寒冷化があり、南進が始まっている。東日本では、25万ほどの人口が6.5万人ほどに減っているのだ。その時期に稲作文化に接し、南進が決定的になったと上田は推論する。


 アマテラスの天の岩戸への雲隠れ事件は「太陽の照らないすずしい夏」を象徴するものである。アマテラスの「葦原ノナカツクニ支配宣言」も宣戦布告とみなせる。


 スクナヒコをまつる神社は石川県には136社もある。島根県より多い。スクナヒコは変わった船に乗り服装もちがいことばも通じない。上田は、アムール川流域の舟の絵が描かれた岸壁画に注目し、この土地の「水上狩猟民」ではないかと推理している。


箸墓伝説も土木建築の視点で読み解くと…


 歴史が好きだという生徒に、よく、「別に文学部史学科にいく必要はない」と説明してきたが、彼などは好例だろう。建築家がみごとに日本の古代史の謎を解き明かしている。


「心の御柱」がなぜあるか? 伊勢の外宮の裏にある外幣殿や御饌殿のような建築物には、両妻壁の外側に太い柱があり、さらに床下にも柱がある。床下の柱を「心の御柱」といい、その真上に神器がまつられている。


 著者は、これを巨木信仰の継承と解釈する。巨木は造船に用いられたものであり、転覆しても、くるりも元に返る。ここに霊力を古代人はみたのではないかという。また、巨木列柱はランドマークとして、舟で旅する縄文人にとり重要な役割を果たしてきたという経緯もあっただろう。


 この伝統が、五重塔の中心の心柱にさしこみ接合という柔構造を生み出したとも考えている。


 都市になぜ城壁がないか? 中国のように、国土や国民を取り合いする戦争はなく、天皇という神(という正統性)の取り合いとしての戦争しかなかった。そのため、天皇の周囲を塀で囲むだけになった。


 門前になぜ市が? 平城京は滅んだ。しかし、方形の市街地からはみ出した「タンコブのような市街地」、「外京」と呼ばれるものがある。ここに元興寺や興福寺があり、その東に東大寺、春日大社がある。これらの大寺は、荘園制のリーダーとなっていった存在であり、全国の荘園開発や物資流通のネットワークを握ったために、寺社の門前に各地の生産物がならぶ巨大な市と化したのだ。明治期に鉄道網が形成されるときにも、こうした寺社のあるところに駅が作られた。奈良時代、平安時代を描く歴史小説では、そうした事象は所与のものとして描かれている。しかし、教科書には出てこないところが、また、おもしろい。日本の歴史教育は遠近感が狂っている。人々の生活や物流は無視されて記述される。


 だから、というのは少しきついけれど、建築学の専門家の方が、歴史の実相がよく見えるのかも知れない。医学史から歴史を見る人の方が面白い見解を披瀝してくれることもある。


 箸墓伝説でヤマトモモソヒメが死んだのは、三輪山の神が「小さなヘビ」だったので驚いたということになっている。上田は、これを小さな川とみ、モモソヒメを大和湖(舒明天皇の『万葉集』の歌、海原はカモメ立ちたつという国見の歌でわかる)とみなす。トトビ「鳥飛び」という名をミミソヒメはもち、モモソは百十である。渡鳥が百十と飛来して体を休めていた湖だったのだろう。


 上田は、この湖の出口の小さな川を塞いでいた峡谷の石をとりのぞいて湖の水を流し、そのあとに沃野をつくることを「蹴裂き(けさき)」といい、古くからあったと説明する。急所を突いて死んだモモソヒメの物語は、この蹴裂伝説の一つだったのだ。そして、人々は、そのモモソヒメのために死を悼んで墓を作った。納得のいく説明である。


 補足:チョンマゲのルーツを縄文人、蝦夷に求めているのも興味深い考察である。




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